天明3年の大噴火


軽井沢の宿

 浅間山の噴火として記録された最古のものは西暦685年(白鳳13年)の噴火で、日本書紀に書かれています。その後の約600年間には噴火の記録としては仁和3年(887年)と天仁元年(1108年)の噴火があり、いずれもかなり大きな噴火であったと思われます。ついで弘安4年(1281年)にも大きな噴火がありました。天仁元年噴火の記録は詳しくありませんが、噴出物の調査から、追分原と六里ヶ原に大量の火砕流をおし出したと考えられます。上の舞台溶岩もおそらくこの時の噴火で流れ出したものです。噴出物の総量は1万Y以上に達し、天明3年の噴火以上に烈しい噴火であったと考えられます。大量の噴出物が噴きだされたため山頂部が陥没して前掛山のくぼみができたと想像されます。山麓一帯は火砕流で焼きはらわれ、大変な被害がでたと思われます。
 弘安4年の噴火後200年余りの間ははっきりした噴火の記録がなく、おそらくわりあい静かな状態が続いたと思われます。永正14年(1517年)から享録4年(1532年)にかけて噴火があり、ついで慶長元年(1596年)から14年(1609年)にかけて烈しい噴火がありました。その後ひんぱんに噴火が繰り返され天明3年の大噴火まで続きます。とくに江戸時代に入ってからは正確な記録が残されるようになり、記録に残る噴火の回数が急に多くなっています。噴火の状況は現在見られるような爆発を繰り返す型のものであったと思われます。

天明3年の軽石層

 天明3年の噴火は日本の火山噴火の災害として最大の出来事でした。記録がたくさん残されており、その中には実際に噴火の状況に接した人が書いたものもあり、噴火の経過が非常によく分かります。これらの記録と噴出物の調査によると当時の状況は次のようでした。
 噴火は旧暦4月9日(5月9日)にはじまりました。はげしい爆発が起こり、その後噴火が続いて灰が降り続きました。噴火はしだいに激しさをまし、7月1,2日(7月29,30日)より後は軽井沢から東の空が真っ暗になるほどでした。7月7日(8月4日)には軽井沢の宿の家々は赤熱した石が落ちて焼けたり、つもった軽石でつぶれたりしてしまいました。沓掛(中軽井沢)や追分などは無事でしたが、人々は7日の朝から南の方へ逃げていきました。7日から8日にかけての噴火はとくにすさまじく、烈しいゆれで山麓の家々は戸や鍵もはずれ、雷鳴稲妻がすさまじかったといいます。午後4時頃、火口から黒煙がおしだし、黒豆河原一帯を焼きはらい埋めつくしました。これは火山弾と

噴煙

火山灰が一団となって流れ下った火砕流で、その堆積物は18.5Zほどの面積にひろがり、体積0.1Yに及んでいます。高温のため中央部はとけて固まり溶岩のようになっています。その中に、当時生えていた樹木の焼け跡が穴となって残っています。普通このようなものは溶岩の中に木の幹が取り残されてできるので溶岩樹型と呼ばれます。大きなものは直径1m以上もあり、巨大な木が茂っていたことが知れます。8日(8月5日)の明け方少しおさまったものの、午前から再び烈しくなり、午前10時、真っ黒な柱が吹き出すと見る間もなく鎌原の方へぶつかるようにとびだしました。これは巨大な火山弾をまじえた火砕流で、山腹に沿ってなだれ落ちてきたものと思われます。火砕流は火口から噴き出されて鎌原まで一気に流れ下ったと考えられますが、現在その堆積物の見られる範囲が鬼押出溶岩流の下の方だけに限られていることから、別の考え方もあります。噴火当時、浅間火山博物館の西側にくぼ地があって、水がたたえられ、柳井沼と呼ばれていました。火砕流がこれに突入して大規模な水蒸気爆発を起こし、岩屑流と泥流を発生させ、これが鎌原の集落などを襲ったのかもしれません。あるいは、沼の中から水蒸気爆発が起こり、さらに火砕流も起こったと考える人もいます。浅間山の北斜面はこの火砕流と岩屑流・泥流によってえぐりとられ、細長いくぼ地ができました。火砕流と岩屑流・泥流はけずりとった土砂をまじえて鎌原の集落をおそい、埋没してしまいました。このため鎌原では住民597人の内466名が死に、助かった人はわずか131名でした。

利根川

 西側の丘の上に観音堂があり、ここに逃げ登った人は幸いに助かりました。当時50段の石段があったのですが、現在はすっかり埋まって15段だけ残っています。岩屑流・泥流は吾妻川を一時的にせきとめ、やがてせきがきれて、下流に熱い泥水がおしよせ、沿岸の村々をおそいました。鎌原の北にあった常林寺の鐘もおし流され、ずっと下流の15qもはなれた川原湯の谷の底に明治43年に見つかりました。また、その竜頭が昭和58年に12q下流の嬬恋村今井の川原で見つかりました。この鐘は現在博物館内に展示されています。熱い泥水は熱石をまじえて吾妻川にそって流れ下り、人家をおし流し、田畑を埋め本庄・熊谷あたりまで達しました。利根川は泥がうまって浅くなり、栗橋より上は旧暦10月まで船が上がらなかったといわれます。死者は総計1,600名以上、流出した家屋は1,000戸以上でした。
 火砕流の流れたあと、そのえぐりとったくぼ地に沿って火口から溶岩流が流れ下りました。これが鬼押出溶岩流です。巾2q、面積約6.8q、体積0.17qで、火口から北へ約5.5q流れて止まりました。山頂付近はその後降った火山灰でおおわれていますが、中腹以下は今なお当時のままの状態が残されています。浅間園のあたりは、表面にゴツゴツした大小の岩塊がつみ重なっています。このような溶岩はふつう塊状溶岩と呼ばれます。これは溶岩流が流れ下る間に表面が固まり、それが砕けて大小さまざまの岩塊がつみ重なったような状態になったものです。浅間園よりももっと上方では、なめらかな表面をもった部分も見られます。これは溶岩流の表面があまり砕けないうちに固結した部分です。溶岩流のへりなどでは、中心部の流れの方が遅いため固まった表面が引きはがされて深いわれめ(クレバス)ができています。鬼押出溶岩流の流出を最後に、大噴火も静まり、噴煙もしだいに収まりました。
 鬼押出溶岩流はその後長い年月の間熱い温度を保ち、末端からしみ出した水は熱湯となっていました。大笹までそれを引いて20年ほどの間使っていたと言われます。
 天明3年の噴火による災害はこれだけではありませんでした。軽石や火山灰でおおわれた田畑は荒れて、作物がとれませんでした。上空に噴き上げられた火山灰が日射をさえぎってその後数年の間気候も寒くなりました。ちょうど同じ年にアイスランドのラガキガルでも大噴火があり、世界中が寒い時代になりました。このため天明の大ききんが起こり東北地方をはじめ日本各地で多くの死者や難民がでました。  

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